三味線とは?
戦国時代終り頃(永禄年間)、琉球国(今の沖縄県)から伝わった三弦の楽器を日本の風土に合う形、音を試行錯誤しながら改良して出来た弦楽器です。
三味線は永禄年間と言いますから江戸時代に入る五十年ほど前の時代、戦国時代の終り頃、琉球国から大阪の堺の港に伝来したと言われています。
当時の楽器は今よりも小さく、又見た目の一番の違いは皮がニシキヘビの皮を使っていた事でした。これは今でも沖縄の三線が代らずにそれを受け継いでいます。
三味線は日本に伝来した時、楽器のみが伝わり演奏者や演奏曲は同時には伝わらなかったと言われています。どうやって演奏するものか、試行錯誤の時代があった様です。
まず同じ弦楽器の奏者である琵琶法師が携わり、これを琵琶的にと申しますか、当時の日本人の嗜好にあった音色が出る様に改良しました。
それは胴の皮を犬、又は猫の皮にした事。これは材料の問題もあったと思います。次にサワリをつけた事。それから撥で弾く事。これは琵琶の奏法に習った、大変日本独特の改良です。
そしてその三味線という新しい楽器は日本人の心をぐっと捕らえて、江戸時代に向って広く日本各地に浸透して行きました。
長唄とは?
一言で言いますと歌舞伎と共に発達した三味線音楽です。
歌舞伎は江戸時代の初頭に出雲の阿国が始めた念仏踊り等の芸能でしたが当時は未だ三味線は使われなかった様です。次の女歌舞伎の時代に入って舞台で床几に腰掛けて三味線を弾く女性が登場します。当時の屏風絵等に残っています。その様子から当初は音楽家と役者との役割がはっきりと分担されていなかった時代と云われています。
次の若衆歌舞伎の時代を経て今日の歌舞伎の原形である野郎歌舞伎の時代に入り、歌舞伎専門の音楽部門を担当する、三味線弾きと唄うたい、つまり「長唄」が生まれました。
歌舞伎は京から発生しましたが政治の中心が江戸に移り、上方の文化が大きく江戸に流入し、江戸の歌舞伎も生まれました。江戸の歌舞伎音楽は当初は上方の強い影響下にありましたが次第に初代市川団十郎を始めとする荒事の創始等から江戸独特の「江戸長唄」が発展しました。
歌舞伎の世界の中で長唄は二つの大きな仕事を担っています。一つは舞踊の為の演奏です。これは舞台に出て演奏する為、出囃子と呼ばれます。もう一つはお芝居の効果音楽として役者の出入りや、心理描写、情景描写を表す演奏です。これは客席から舞台を見て下手の黒御簾という場所で客席からは隠れて演奏します。下座音楽、又は黒御簾音楽と呼ばれます。
今日伝承している長唄舞踊曲は最も古い物だと享保年間の「七福神」と言われていますが、宝暦年間から「京鹿子娘道成寺」「英執着獅子」「鷺娘」等、長唄の普及曲が揃い始めます。
その後を通じて歌舞伎舞踊曲は作られ続けますが、江戸時代の後期文化文政時代の特に文政になりますと、歌舞伎の舞台から離れてお座敷で長唄の演奏家が演奏するいわゆるお座敷長唄が始まります。これは今日の演奏会に繋がってゆく流れです。お座敷長唄では勿論過去の舞踊曲長唄も演奏されましたが鑑賞の為の長唄も作曲される様になりました。舞踊の形式の制約から解放されて正に音楽鑑賞の為の曲が作られました。その第1号が文政三年、四世 杵屋六三郎の「老松」と言われています。
又、同じ時期、大薩摩節と呼ばれる浄瑠璃の一ジャンルが長唄に組み込まれました。唄ものである長唄に語る要素が加わりました。これによってドラマ性の有る長唄が作られ始めました。特に「お能」「能楽」の演目を題材とした長唄が沢山作られ始められました。先行芸能である「お能」を題材として舞踊曲を作る事は長唄の当初からありましたが、この頃から明治にかけては能の詞章や物語の内容そのままを舞踊の為にというフィルターを外して純粋に三味線音楽化する長唄が作られ始めました。「鶴亀」、「竹生島」、「紀州道成寺」、「石橋」、「望月」、「熊野」など数々有ります。
そして明治、大正、昭和にかけて歌舞伎長唄も熟練の名人達に支えられて磨かれ続けました。それと相まって演奏会長唄でも個性の有る演奏家の作曲、稀音家浄観+吉住慈恭の長唄研精会の新曲、四世 杵屋佐吉の曲群、長唄東音会の創始者、山田抄太郎の新曲など江戸時代の曲にも劣らない名曲が数々生まれました。